nagatomo物語 『世界一のサイドバックへ』

これは私が知る事実を基づいて書いた文章です。間違いはないと思いますがあったら指摘して下さい。どこかのコピーではありません。



『世界一のサイドバックへ』

長友佑都は感謝の気持ちを忘れない。「感謝」は長友がよく口にする言葉である。

サッカー部に所属していた中学時代。愛媛のゲームセンターで遊び暮れていた悪ガキ・長友の首根っこを掴んで練習グランドに連れ戻したのが恩師・井上先生。この頃フォワードだった長友はボールを持ったら1人でドリブル・シュートのワンマンプレー。井上先生が必死に仲間との絆・楽しくサッカーをする事を教えた。チームプレーを覚えた長友は運動量が少なかった為、駅伝部にも入部。毎日5Km走り、そしてサッカーの練習も行った。今の長友の無尽蔵の運動量はこの頃から培われてきた。

サッカーの強豪校・東福岡高校に進んだ長友。ポジションは一つ下がり中盤でプレーしていたがパッとしたプレー・成績は出せなかった。大学への進学もスポーツ推薦は受けられず、指定校推薦枠で明治大学に進む。

明治大学のサッカー部に入部した長友は椎間板ヘルニアを発症し、インディペンデンスリーグ(Bチーム)の試合にも出れない。長友の姿は観戦スタンドの応援団の中にあった。応援の太鼓を叩き続けた。ちなみに長友はアフリカンな太鼓叩きをするのが有名で、鹿島アントラーズのサポーターグループが是非うちで叩いてくれと誘いにきた程の腕前であった。

2年生の時には神川監督から中盤から右サイドバックへコンバートを言い渡される。日本を代表するサイドバックはこの時誕生した。フィジカルの強さとアップダウンを繰り返す走力でトップチームのポジションを勝ち取った長友は、FC東京との練習試合で当時のFC東京・原博美監督(現サッカー協会・技術委員長)の目にとまり、試合後「君いつでも練習に参加していいよ」と声を掛けられる。
3年生の時は長友の活躍もあって43年ぶりに関東大学リーグで優勝を飾るとともに、FC東京特別指定選手になりJリーグにも出場した。勢いに乗った長友は北京五輪予選の代表チームに呼ばれる。初めて出場した五輪予選、先制した日本は反町監督が右サイドバックの長友に「上がるな・守備してろ」と伝える。しかし、ここでアピールしないでどこでするんだと思った長友は監督の指示を無視し、どんどんゴール近くまで上がりクロスを上げる。遂には体ごと飛び込みゴールまで決めてしまった。

大学生活を1年残した12月の事。明治大学はインカレ大会を戦っていた時、FC東京からプロ選手として正式オファーを受ける。プロサッカー選手になるのが夢だったが「本当にいいのか」「大学の仲間を裏切る事に」と悩んでいた長友の背中を押してくれたのも仲間だった。そして神川監督から一つの条件が出された。「あと1年残っている大学は卒業しろ」と。
明治大学サッカー部を退部しFC東京の選手となった長友は、小平の練習グランドでチームの練習をしてから明大前のキャンパスに行って大学の講義を受けるという生活を続け単位を取得、神川監督との約束通り大学を卒業。その頃にはFC東京だけでなくA代表のスタメンも奪取していた。大学の卒業式には出席したかったがW杯予選に向けた合宿と重なり出席出来なかった。

FC東京で活躍する長友はファン・サポーターからゴリラの愛称をつけられた。顔がゴリラに似ているからだ。FC東京にはもう1人ゴリラ似の徳永という選手がいた。徳永とは右サイドバックのポジションを争っていたが、監督の指示で長友が左サイドバックをやる事に。利き足が右足だった長友は左足でクロスを上げる練習を必死で繰り返した。長友・徳永の両サイドバックは両ゴリラと呼ばれ小平グランドではバナナが差し入れられる事もあった。
長友といえば強靭なフィジカルを持つ事で有名だ。上背がない自分が世界のトップレベルの選手と互角に戦うにはどうしたらいいかと考えた長友は体幹レーニングを毎日繰り返す。体脂肪率は測定出来ない所まで下がり、推定3%と言われている。強靭な体を手にした長友だが、代わりに免疫力も下がり風邪・胃腸炎を起こしやすくなり練習を休む事が何度かあった。そんな長友をファン・サポーターは「筋トレとか体幹とかやり過ぎだろ」と言った。

しかし、長友は自分がやってきた事が正しかったとプレーで証明した。南アフリカW杯本大会、世界のトップクラスの攻撃的選手を次々に抑え込んだ。強靭なフィジカルで競り勝ち、豊富な運動量で攻守に貢献。そんな長友を世界は放ってはおかない。W杯終了後、欧州のクラブチームからいくつも獲得のオファーが届いた。1年前から南アフリカが終わったら欧州に行くと決めていた長友が選んだクラブはイタリアのACチェゼーナセリエBからセリエAに昇格する小さな街のクラブだった。もっと大きなクラブからのオファーもあったが、試合に出ることを優先し、ステップアップを考えた。

FC東京のクラブもファン・サポーターも快く長友を送り出した。なぜなら長友は5つの約束を守ったから。海外志向の強かった長友が初めてプロ契約した席での話し。海外移籍へ5つの条件が契約書に盛り込まれた。1、FC東京でスタメンを獲得する事・2、北京五輪に出場する事・3、FC東京に一つタイトルをもたらす事・4、日本代表のスタメンを獲得する事・5、日本代表でW杯に出場する事。2009年ナビスコカップで優勝し2010年W杯に出場、なんと5つの約束をすべてクリアしてみせた。それも3年半という時間で。

イタリアに旅立つ時も、長友は「支えてくれたすべて人に感謝してる」と言った。シーズンオフには必ず中学時代の恩師・井上先生のもとを訪れ子供達とボールを一緒に蹴る。神川監督率いる明治大学の試合も時間が合えば今でも応援に出掛ける。FC東京の原博美監督(当時)、FC東京城福浩(前)監督、FC東京のクラブ・ファン・サポーター、そして一緒に戦ってきた仲間に対しても感謝の気持ちは忘れない。それでも、家族への感謝は1番強い。女手1つで育ててくれた母親は、早朝から牛乳配達を行い夜まで働いて大学まで行かせてくれ好きなサッカーをやらせてくれた。大学時代には姉が一緒に住み食事を作り体調をコントロールしてくれた。そんな家族を北京五輪そして南アフリカW杯に招待した。長友は家族への感謝の気持ちを忘れた時間はない。

アジア杯で活躍し優勝に貢献した長友に対する世界の評価はさらに上がった。そして、期限付き移籍していたチェゼーナから強豪クラブ・インテルへ移籍、FC東京には数億円の移籍金が入った。長友はプロとして育ててくれたFC東京が有利になる契約を残し世界へ羽ばたいていった。
世界一のサイドバックになる為に。



※ 大学生活を1年残した1月の事→12月の事に訂正(2.3.23:53)